以前から環境によって自分の評価軸は大きく変わると思っていて、常々自分の承認欲求に疑問を抱いていました。
他者がいるからこそ相対的に自分を評価してしまい、判断していたんだなと思っています。
他者がいるから自分の幸せを感じる?けどその考え方は偽物だと思う
人を一定の評価で判断する仕組みがあるじゃないですか。気付けば学校に入って通知表とかで判断されていきますよね。
昔からその評価方法は疑問に思っていて、変にねじ曲がった子供だったなぁと思います。
環境を自ら落としたことがある経験
私が一人暮らしを始めたとき、金銭感覚が本当におかしくて日用品を好きなだけ揃えていたんですよね。
わずかな不安から残りの金額を計算したとき、給料日まで一日30円くらいしか使えないことに気付きました。
そこでお米だけは用意してあったので、朝抜き・お昼はおにぎりで夜は19円のもやしだけ生活を一ヶ月続けることに。
給料入ってからまともな食事を取ったとき、めちゃくちゃ美味しかったのを覚えています。あの経験から、食料品に対するリスペクトが生まれました。
環境が変われば幸せに感じるものも大きく変わる
私の中で「多少の好き嫌いがあっても、飢餓に悩んだら間違いなく食べる」という経験が非常に衝撃でした。
サバイバルをすればご飯がおいしく感じるように、当たり前になんでも揃う環境がベースだと幸せのハードルってそもそも高いですよね。
そう考えたときに過去の「評価システムへの疑問」がリンクして、人は環境によってあらゆる評価を変えているんだなと気付きました。
関わる人次第で評価や目指しているものが変わるって、なんだか嫌じゃないですか?
関わる人を最小限にすれば正しい判断ができる実感
今まで私は関わる人によって、自分は結果が出ていないとかなにかが足りないと常々感じていました。
けどそんなに頑張るものじゃなかったんですよね。もっと自分の楽しいを追求すれば、あの満たされない感覚を味わい続けることはありませんでした。
本当に自分がやりたいことや目指したいものを考えたときに、相対的な評価でコロコロ変動するのはあまりに愚かしいです。
関わる人を最小限にすれば、判断するのは自分しかいません。自分との戦いになれば、雑念が振り払われて余計なことをしなくなります。
まとめ:関わる人で評価が変わるならいっそのこと一人になってみるといいかも
自分が今抱いている「満たされない感覚」は、もしかすると他者の相対的な評価で感じているだけかもしれません。
そんな考え方のせいで正常な判断を行えていなければ、間違った道を突き進んで苦しいだけかもですよ。