人の気持ちを読むことは不可能だし、どんなに頑張っても分かり合えるものじゃありません。お互いに勘違いすることはできます。
けどこういうことを言えば反論されるんですよね。分かり合えるはずだ!と。なぜ人をそんな冷たい目でしか見られないんだ的な。まぁ、そういうところですよ。
人の気持ちに気付いてあげられないのは当たり前だし問題ない
あくまで予測して、ある程度の当たりをつけるのは可能です。その考え方がたまたま合致して、相手の満足度につながるわけですよ。
しかしそこにはある程度の利害関係が成立していて、バランスが崩れれば破綻します。分かり合えるという言葉は、非常に空虚なものです。
分かり合えると思えば精神的にすり減る
基本的な前提として、人の気持ちを読むことはできません。そして読めたとしても、その考えをすべて理解して寄り添うのは非常に難しいでしょう。
人は自分が一番大切だし、自分本位になるのは当然だからです。自己を犠牲にしてまで他者を優先できるのは、「分かり合える」から遠い存在。
だから分かり合えるという言葉へ執着するのは、答えを出すのが難解な上に常時求めるものが変わる数式を解くようなものです。
ゴールのないマラソンを続ければ、いつ終わるんだろう…?と精神的な負担が大きいですよね。
お互いに安心するため使える言葉でもある
でも永遠に分かり合えないより、お互いに線引きをして「分かり合えている」と勘違いすると楽です。もう追求しなくていいわけですからね。
だからこそその言葉に油断して、一方的な負担を強いたり前提を間違えたりすると裏切られます。
自分が悪いのに、裏切られたと傷を負うわけですよ。結局そういう考えってある意味じゃ依存に近い気がします。
一定の距離感が必要なように、分かり合えるという空想は意外と矛盾だらけです。
分かり合えない前提を踏まえたほうが生きやすい
全然冷たい見方とかそういうのじゃなくて、基本的に人はどうやっても分かり合えないものです。
だからこそ分かり合おうとする意識が生まれたり、狙って相手の満足度を獲得したりする技術に価値が生まれます。
お互い本当に分かり合えるなら、そこへ幻想を抱くこともないですよね。つまりそういうことを理解しているはずです。
分かり合えないけど、尊重することはできます。長ったらしいけど、答えとしては分かり合うより尊重し合うほうがいいという話です。
まとめ:分かろうとするんじゃなくてその人なりの考えを尊重するほうがいい
分かろうとするのと尊重するのじゃ、全く話が違います。相手が理解を求めてくることもありますけどね。
そういう方はそういう考えを実行しているだけなので、無理に合わせる必要はないでしょう。