自分には無いものを見て、周りの人はよく「才能がある」という言葉を口にします。もちろん才能もあると思うけど、使い方が違うような気もするんですよね。
感覚としては、自分には無理な得体の知れないものを指すような。でも多くの場合、その才能で片付けると詳細を知ろうともしません。
才能で片付けてしまえば一切手を出してはいけない認識になる気がする
生まれ持った才能という認識にしてしまえば、自分が手を出すと失敗するみたいな。才能がある人じゃないと出来ないという感覚になる気がします。
つまりやる前から諦める系の意識に近いです。結果としてその言い訳を使ってしまうと、ほとんどの言い訳に「才能」を出してくる状態となってしまいます。
才能を高いハードルにしている
才能と言って言い訳する人は、「得体が知れないもので自分には到達不可なもの」という意味で使っている気がします。
もちろん得体が知れない、はなんとなく合っていると思うんですよ。自分が理解できない範囲で、本質を掴めるみたいな。
全く理解できない人からすると、得体が知れないのでびっくりしてしまいますよね。でも自分が到達不可なものに対するレベルが低すぎます。少しやっておしまいとか。
本当の意味で、やってみないと分からない部分は多いですからね。才能で片付けてしまうと、その時点で辞める際の言い訳を作ってしまいます。
言い訳に才能を使えば辞めやすい
「私には才能が無いから」この一言は、辞める際の言い訳によく使われます。もちろん本当の意味で使っているなら良いかと。
ただみんなこの才能をダシにするとき、非常にハードル低くポンポン使うんですよ。いや確かに都合が良いから使いやすいですけどね?
でも私からすると、才能を言い訳にする一部の方は「そこまでやっていないな」という認識です。
才能って物事の取っ掛かりや、物事全般に当てはまる言葉じゃありません。限界の領域がどれくらいあるかに使われる言葉だと思います。
ごく一部の天才を除いて才能は無いと考える
本当に才能の領域を使う場合って、めちゃくちゃ努力して結果に迫ったときだと思うんですよ。
とにかく努力して、頑張って結果を出そうと尽力した。でも一歩及ばなかった…という場合ですね。このときに才能を使うのは正しいと思います。
でも例えばやる前から、私には才能が無いからできないみたいな。ほんのちょっぴりやってみて、才能が無いと言い訳するのは違います。
前向きに才能が無いと理解した上で、違うことに挑戦するなら良いでしょう。しかし自分を慰める言葉に使うと、どんなものにも挑戦できなくなります。
まとめ:あくまで才能は取っ掛かりじゃなく限界領域の先にあるものだと考える
自分から見て才能がある人って、最初から苦もなくやれる人をイメージするのでしょう。もちろん取っ掛かりはその差があるかもしれません。
ただしその期間を乗り越えてできることは非常に多いです。私は全般的に物覚えが悪いので、ほとんど取っ掛かりが悪いことばかりなんですよね。
けど大半はやり続けたらできるようになります。この感覚を知らないと、おそらくどんなものにも「才能」を使うようになるのかな。