単純な一人の時間ではなくて、自分の気持を冷静に客観的に見つめ直せる時間ですな。
上野です。こんばんは。
時折こうやって自分の内面と向き合って、モヤッとしたものを記事化する習慣が身についたせいか。
一人で過ごす時間の大切さを改めて知った。
というのも、自分を見失うこと、これが一番よろしくないと思っていて。
どうにも人は弱い生き物なので(特に精神面で)、しっかり自分と向き合うことで冷静さを取り戻せる、というイメージ。
いつも思うけど、書き連ねている間は何を書いてるのかさっぱり分からない。
書き終えた後でも、辻褄が合って無くて自分は何を考えているんだろうとか思ったり。
人と関わりすぎる事
多くの情報を浴びることは、とても良いことだと思う。ただそれを判断していけるだけの余裕がある時に限る。
どうしても数多くの意見、考え方、趣味嗜好とか情報は、人と多く関われば自然と増える。
簡単に言い換えれば、人と関わりすぎれば冷静さを見失うタイミングが訪れやすくなる。そんなこと、悩むことすらないよっていう人もいるけど。
いずれにせよ、どんな状況でも自分のキャパを超える情報量に触れる時は来る。
そんな時に一番やってはいけないのが、間違った意見や情報に振り回される事。だと思う。
冷静になる習慣
人に左右されない判断を持つには、人に左右されない時間を意識的に作らなきゃいけない。
じゃないと、自分の判断基準がどこにあるか気付けない。
自分を客観的に見ると、結構感情が強いなって思ったりする。元の性質というか本質?
この記事を書いている最中はとことん自分と向き合っている時なので、冷静に自分を見つめ直す事が出来る。
ある種のストレス発散だ。
バランスの難しさ
人と関わりすぎると冷静さを失い、一人で居すぎると他人との接し方に迷うことになる。
傷つくのが怖い、失敗したくない、関わるべきでない……そう思っていれば、きっと一人の時間に傾倒してしまう。
いわゆるカラに閉じこもる状態。
結局は自分にとって何がいいかという部分を置き換えると、傾倒している状態でも焦りを感じる、もしくは安心感を感じるというのは、自分の深層で「本当はこうしなくちゃいけないのに」という理想から逃避して安堵してるだけなんじゃないだろうか。
結局は、自覚してるからこそ内の世界に閉じこもる事が出来るんだなぁと。
自己憐憫、という言葉がある。
自分のカラに閉じこもるという意味で、少し似たような言葉。ここでは言及しないけど、自分が可哀想と思い込み、自分の内の世界にばかり溺れてしまう。
やはりここで問題となるのは視点だ。自分が悲観の波に溺れている事に気付けていない。
大事なのは自分を受け入れる事。そのためにはやっぱり、自分を客観的に見れなきゃいけない。
自分の世界を文章化してみる
自分が一人の時間を得るときにイメージする感覚を、あえて文章化して見る。
平和で、静かで、暗くはない。むしろ明るくて、どこか繊細で、風景画とか描けちゃいそうな大樹の根本みたいな感じ。動物とかは一切いない。
日差しはあるけど空がなくて、その中心樹の外は真っ白。ええと、表現しにくいなぁ。既視感と違和感が一緒になったような、正夢、デジャヴ!あれに近い感覚。
……字にすると、途端に厨二くさくなる。笑
でもきっと自分の世界って誰にでもあるから、あんまり文章化はしないんじゃないだろうか。
その人にとっては侵されない神聖な領域だろうし。
向き合って脱線した結果
今、多分、とっても激動の前。それが何を示すかは分からないけど、なんとなく体感で何かが起こる手前と感じている。
ポジティブに言えば、来年は飛躍の年かな~みたいな。
ネガティブに言えば、自分のキャパを超えるぐらいの大きな出来事に四苦八苦しなきゃいけないよ、ということ。
きっと、自分の時間が足りないってどこかで思ってるのかも。
おわりに
もっと、より多くの時間を一人の時間に費やしていこう。今は、全然足りない。
今から、バランスを取ろうとしてるのかも。
依存じゃなくて共存。
…あー、そっか。
人に依存するんじゃなくて、共存するっていうのも一つの答えなのかな~と、今書いてて気付いた。