うえのブログ

思いつくままに、書くのみです(^o^)

意図的な甘やかしは良いと思う、優しすぎるのは偽善で無責任だと思う

優しすぎる人。本心でないならそれはただの偽善だと思う。

 

単純にそう感じるけど優しすぎる人って、なにか闇っぽいものを抱えているんじゃないかと斜に構えてしまう。

 

それはきっと自分を守りたいが故に、自分を失くしてることと一緒なんじゃないかという考察。

 

 

 

 

その行動は自分の意思か?

 

自分が何か行動する時、自分に問い掛ける事は多い。それは本当に自分の意思か?

 

損得勘定とか、人情とか、色々あるけど、でも本当に底の部分で言ったら「如何に自分を得とさせるか?」だと思う。究極的にだけど。

 

生存本能もそうだし、傍目から見て損してるように見えても自己犠牲そのものに酔ってる人もいるし、他人に悪く思われたくない一心で都合のいい態度を取る場合もある。

 

どこかで見かけたけど、人の為(特に意識して使う場合)は偽物だと思う。

 

わかってるなら、いいけど

 

自分が果たして何をしてるのか、わかった上でその行動を取捨選択してなら良い。

 

白黒つけたいわけじゃなくて、矛盾がはらむ危険性っていうのをもっと自分の中に落とし込んでおく必要があると思う。無自覚は恐ろしく鋭い。

 

わからないまま、自分の首を締め続ける行為が如何に恐ろしく滑稽な事か。

 

防衛本能として

 

そういう人は多分、自分が主体性を持って行動するということをどこかで置き去りにしてしまったのではないだろうか。

 

優しくしてるつもりでも、そこに自分の意思がなければ偽善。他人のためと言いつつ根底は自分の私利私欲だもの。冒頭で述べた通り。

 

失うのが怖い、ということもある。

 

故に、この手の感情は失われそうになった瞬間に突然牙を剥くのではないか。自分にも他人にも。

 

 

優しいと言われる事

 

たまに、私のことを優しいと言ってくれる人がいる。

 

ただ、どちらの意味で言ってくれてるか分からない時がある。

 

自分が優しくしたい、と思える時。どうしたらこの人の為になるだろうか?って考える。

 

時に言葉が厳しくても、傍目から見て嫌っているように見えていても。

 

その人が結果的に立派に成長出来たら、それはとても嬉しい事。嫌われたって厭わない。自分の選択だから。

 

甘やかしと言う名の無責任

 

意図的に甘やかす事はある、表面上だけの取り繕いには近い。でも中身はかなり違う。

 

そして依存。これに十分注意しないと、他人に費やした時間が却って自分の時間を大幅に奪うこととなる。

 

責任を持って、最後までこの人の甘やかしから自立まで面倒を見るとか思ってるならいい。

 

(もちろん甘やかしが全て悪いと言うわけじゃない)

 

タチが悪いのは、一時の自分がよく思われたい嘘から働く偽善だ。これはこの先、その人がどうなろうと知ったこっちゃないという無責任さを兼ね備える。

 

「あなたの為を思ってます」と言うなら、最後までちゃんと責任は持ちなさいな、と思う。

 

面倒見てって意味じゃなくて、あなたの為と言いつつ自分の為という矛盾が相手を傷つけるのだ。

 

境界線は、確かに難しいかも

 

どこまで踏み込んでいいものか?それは多分、踏み込む直前か触れてしまった瞬間に気付くんじゃないだろうか。

 

踏み込む前から分かる人が居たら、もうそれは人じゃないと思う。あくまで「そう思う」の延長線で、結果的にうまく行ったことが付随してくるだけ。

 

これを突き詰めると、人はどこまで行っても一人なんて哲学的な話になってしまう。

 

 

もっと広いとこで見てみる

 

自分が傷つきたくない、自分を守りたい、嫌な思いをさせたくない。

 

全部自分の中。自分の殻に閉じこもってる。

 

自分主体じゃなく、他人が先に来てしまうから主体性は無い。周りに流されやすいとも言えよう。

 

本当の優しさは、そんな自分の殻を飛び越えた先にあると思う。

 

要は責任を持てるかどうか

 

単純に何かのキッカケになれば、と掛けた声が、相手の触れてはいけない部分に触れる事がある。

 

または、誤解を生んで知らない内に相手を貶めてしまっていたり。

 

「相手の為」を思った行動が、予期せぬ悪意になって相手を襲ってる場合もあるんだ。

 

 

結論としては

 

そう考えた時、私は優しくないと考える。優しくしたい人は、この手に収まるぐらいなものだ。

 

ただ冷たくしたいってわけじゃなくて、偽善はしたくないよって話。

 

自身のキャパがそんなに広くないので、手を貸せる人は限られる。ただ、不用意に手を貸して中途半端に握った手を離したくないというだけ。

 

その根底も自身の整合性を保つためなのだと感じるし、ワガママだと我ながら思う。

 

 

おわりに

 

ものすごく個人的な好みの話になってしまったので、尖ってしまった。

 

それでも多種多様な価値観があるから、こんな考えも生まれるのかと思うとある意味じゃ共存共栄が図れている。

 

なので、中庸であることの凄さを思い知る。こんなの書いてる時点で到底到達不能。

 

それよりも危うさを兼ね備えたほうが、ある意味じゃすごく成長できるのかも。