ブログの習慣が身に付いてアウトプット、生産、なにかを生み出していく手段を覚えた。
これはすごい有能で、自分にとって革命的とも言える表現方法。
恐らく今までの自分は、思い浮かんだもの、気になったもの、それら全てを抱えて生きてたと思う。
書き出すことは、重荷を振り解く事と、空気のような、でも重要な大概的イメージを体に纏う感じ。
インプットとアウトプットの割合って言うけど
単純に、知識を得てそれを書き出すことがインプット→アウトプットみたいなやり方に捉えられる事が多いと思う。
もちろんそれだけじゃないんだけど、自分としてはインプットした上で何を思ったか、どう噛み砕いたか、更にそれと既存の知識を合わせて何かが生まれるか。
少なくとも10通り以上のアウトプットラインがあると考える。
組み合わせ次第で、一つの事象からオピニオンまで含めて恐ろしいぐらいの量がアウトプット出来るんじゃないだろうか。
発展は蓄えた知識や経験、それ以外は乗算
多分、ある程度の知識や経験が無いと自分の中で発展させることは出来ないと考えるだろうしそれを説く人も多い。
ただすごく単純に言えば、自分の中でややこしくすることなら爆発的に事象を噛み砕いて発展させる事が出来る。
これが厄介で。
感受性、というわけではないと思う。色んな見方から切り開くのも、字面としては納得するけどいざやってみると得られる感覚は違和感。
どんどん膨れ上がった積乱雲みたいな、内包するエネルギーは見た目と中身のギャップが激しい。
しかも表現するのにまずは字をこねくり回さないと腑に落ちない。
自分に伝える言葉
一種の暗号みたいだ。どうも文章そのものには意味がなくて、形容しようとするそのモヤッと感を通してようやく言葉に出来るみたいな。
簡単に言えば、自然と出た言葉が何言ってるかわかんなくて、でも伝わる雰囲気が読み取れると整理できる。
もっとストレートに表現できる人は、思考が厄介じゃないからエネルギー消耗が少ないんじゃないだろうか。
こちらは不純物の極みを吐き出す場
今まで無限に溜まっていった何かが、表現を通して落ち着いて来ても毎日流れはどんどんやってくる。
そんな中で表現してる内容は、多分上澄みとか綺麗にしたがる自分のフィルターが大いに役立っていると思う。
もちろん捨てる所が無いので自分の中に戻ってきて、綺麗な部分だけ上がる。
するとなんとなく、何かが気に入らない。そんな感情に駆り立てられる。
濃度は上がる
以前どこかで見た自家中毒じゃないけど、この不純物がどんどん濃度上がって、そのうち良くない影響を及ぼすと思う。
前までこんな事は無かったから、日々アウトプットする上での副産物なんじゃないかと思う。
そう考えると、アウトプットをしなかった時の自分はどれほどの内容を詰め込んでいたのだろう。
しかも、重荷と表現したけど軽くなった感じはしない。より大きな波を扱えるようになった、というちょっとどうしようも無い展開だと思う。
定期的な放出がバランスの鍵
書いてスッキリする、なんてことは全然無い。でも書かなきゃいけない。そんな自分でも訳の解らない状況だったりすると内面と向き合う時間だと意識する。
精神的に不安定でもなくて、どちらかというと安定してるからこそちゃんとやっとこ!という意味合いもあるかも。
結構、作業的ではあるけどまだどういう意図があるのか分かってないのは問題かも。
おわりに
一度また、全放置してみたいという気はある。
習慣が身に付いて得られるものを得た後、また前と同じ状況に戻ったとしてもまた違う目線で物事を考えられるはず。
きっとしないけど、それは停滞に近いから発見という意味では良いかもしれないけど最善ではない。
今日はなんだかすんなり剥がれ落ちるので、こんな日もあるんだといい気付き。